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ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ(、? - 1242年以降)はウラジーミル・リュリコヴィチの子である。オーヴルチ公:1223年 - 1235年〔3.16. СМОЛЕНСЬКА ГІЛКА РЮРИКОВИЧА. СМОЛЕНСЬКА І ЯРОСЛАВСЬКА ДИНАСТІЇ // Л.Войтович КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ 〕〔Н. Маркевич. История Малороссии, Т. 5, М. 1843〕。 ロスチスラフは、かつて自身の父ウラジーミル、祖父リューリクが治めたオーヴルチ公国を1223年より統治した。それは同年のカルカ河畔の戦いでキエフ大公ムスチスラフ3世が死亡し、オーヴルチ公位にあった父がキエフ大公となったことによる。1234年、父の派遣した外交使節と共にキエフからガーリチへ赴き、ガーリチ公ダニールを、チェルニゴフ公ミハイルに対する遠征に踏み切らせている。 ルーシ南部へのモンゴルの侵攻の最中、父のウラジーミルは1239年に死亡した。この時期にロスチスラフが何をしていたのかは、年代記には記されておらず、1242年にホルムにいたダニール(上記のダニール)の元へ現れたということのみが記されている。史料上に、以降のロスチスラフに関する記録はない。 ロスチスラフの妻に関しては不明である。子に関しては、1289年にヴォルィーニ公ムスチスラフ(上記のダニールの子)に服属したポロシエの公ユーリーという人物が、あるいはロスチスラフの子ではないかと推測されている。 ==出典== 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (オーヴルチ公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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